第2日 参拝
翌朝、テキストによく出ている「きょうの調子は?」なんて言いながら入っていくと、「変わりはありません」と、薄茶色のブーツを履いたまま現れた。驚いて意見したら、上履きのブーツだった。ときどき、上履きのブーツを外履きにしている人もいると言っていた。畳の部屋はふすまを閉めたままだ。昨夜は間接照明の明かりが映える日本間だった。借りていったUSBメモリーとIDカードを居間のテーブルの上に置いた。音量を小さくしたテレビがついていた。BBCが制作した番組だと聞いた。茶色の犬の人形が鮮やかな緑色をした森を駆け回っている様子が映っていた。「配色や登場する人形の動きが面白い。」と言っていた。モーニング・コーヒーのほのかな香りを辿って台所に回った。生野菜やサケのマリネはほとんど手つかずのままで、○○・カイザーのフランスパンとコーヒーが朝食だった。居間から聞こえるコーヒーを勧める声にこたえて、流し台にあったコーヒーカップの容器を勝手に取ってカップに注いで飲んだ。コーヒーは○タバのミディアム、ハウスブレンドだ。気兼ねなく使ってもらえるようにと妻が封を切って瓶に入れておいた。昨夜、持ち帰るのを忘れていたチキンのトマトソース煮は鍋ごと冷蔵庫に入っていた。この冷たい鍋とフランスパンの残りを持ち帰ることにした。居間の方から「隕石が落ちたでしょ。」という声が聞こえてきた。今朝、テレビで見たロシアの隕石のことだ。meteorの発音練習を2度ほどしたあと、ゲストが白い紐のついたA4サイズの小さな白い手提げの紙袋に片手を手を入れながら、お土産だと言って台所にやってきた。紙袋は無造作に床に落として、緩衝材を剥がした。中から出てきたのは、ロバート・マクリントック(Robert McClintock)という人が描いた1号くらいのサイズの油絵で、実写をデジタル処理して描いたものだと説明してくれた。美術館だという建物の外壁に「LOVE」と書いたネオンサインが輝いていた。ゲストの自宅の近くに、これを制作した人のアトリエがあるそうだ。
いろいろ準備をしてくれた妻にこの絵画を渡すと、玄関の脇の花瓶の隣に飾った。帰り際に、いま入ってきたとき、玄関に置いたままにしておいた「In Case of Emergency」と書いた緊急時のためのメモを渡して説明した。この日の朝、万一のこともあるかも知れないと思いついて急いで作成した。警察署、消防署に日本語を使って電話で話す「セリフ」や、駅からタクシーで帰ってこられるように住所書いておいた。強調する所は大文字で、発音しなくてもよい無駄な母音を省いて、なるべく日本語らしくなるように、ローマ字表記を工夫した。消防署には、火事か、事故かを分けた。タクシーの場合は、終わりに「お願いします」を付け足しておいた。実際に使うことはないだろうが、役に立つメモの方がいい。
約束の時間の10分前には面会できるように、バス停のそばからタクシーで市役所に向かった。市立病院の脇を通りすぎたところで、信号待ちをしていた。タクシーの左側に座っていた私の肩越しに、コーヒーショップをじっと眺めていた。まるでコーヒーを主食にしているような人だとわかったのは、もう少し後になってからだ。教育文化会館の角を左折し、ハローブリッジの下でも信号待ち。時刻は10時20分ごろだった。ハローブリッジがちょっと変わったデザインの建造物に見えたのだろう。上を車が通るのかと質問された。歩道橋で人と自転車専用だと答えた。稲毛神社の鳥居を右に見て、市役所の向かい側にテールライトが点滅している車の前で降りた。
市役所の本館を左に見ながら歩道を渡る。面会まで少し時間があるので、隣にある稲毛神社へ行こうと誘った。このとき、見知らぬ土地では、あまり知られていない固有名詞を会話に入れると話がしにくくなるので、なるべく使わない方がいい場合もあると思った。近くの神社といえばいいのだ。本館の右の通りを右折して神社の北側の鳥居から入った。小雨が少しだけ降ってきた。傘を差すほどではない。狛犬は石造りのものが多いが、稲毛神社にはブロンズのものがある。数多くの絵馬がぶら下がった脇から本殿前に向かう。左側、右側とブロンズの狛犬の前で撮たせてもらった。本殿を背景にした私を撮りたいと言うのでお任せした。樹齢千年のイチョウの木とその周りの干支をあしらったブロンズ像を左回りに見て回った。動物のブロンズ像は右回りに干支の順に並んでいた。午か未のブロンズの前で両手を合わせて熱心に拝んでいる若い男性がいたので、しばらく待った。時間をかけて丁寧に何度もお辞儀をしていたので、御礼ではなくてお願いをしているようだ。帰宅後、ゲストが絵馬の話を持ち出た。私が板に絵を描くようになる前は、英語でよく言われている「白象(White Elephant)」に例えられるように、実際に馬を神社に奉納したことを話したら、ゲストはそのことを知っていた。昔、タイでは神聖視されていた白象は,飼うのに費用がかかったため王が失脚したという、持て余し物の例えだ。帰り際に本殿の中に入れるかと聞かれた。そろそろ面接の時間が迫ってきているので、「もちろん、はいれる」と答え、市役所に向かった。 つづく